絵師紹介

勝川春英
宝暦十二年(1762)〜文政二年(1819)

春章の門人で春好と並び師の画風をつぎ、役者絵と相撲絵を多く描いた。派手な画風で似顔の表現や個性の描写に師の画風を発展させ、土俵入りの図に工夫を加え、幕内全力士を紹介する構図にした最初の絵師である。寛政文化期の相撲絵をたくさん残してくれた相撲錦絵史上の、第一の功績者である。


勝川春亭
明和七年(1770)〜文政七年(1824)

勝川春英の門人で、美人風俗画、役者芝居絵、洋風風景画、役者絵など各種にわたる絵を描いた。相撲絵も多いが、師に比べると技量は及ばない。


勝川春好
寛保三年(1743)〜文化九年(1812)

春章の門人中のピカ一で、師の画風を最もよくついだ。大首役者絵を最も得意とし、相撲絵も傑作を多く残した。天明末頃、中風にかかり右手が不自由となり、左手で描いた。


勝川春章
享保十一年(1726)〜寛政四年(1792)

宮川春水の門人であるが、旧来の鳥居派の、おもちゃ絵的な画風を排し、役者似顔絵を創始して一家をなした。役者の容貌や身のこなしを写実的に描くことにより、ありのままの生きた姿を表現した。相撲絵も同様に力士のありのままを表現したので、写真のなかった当時の力士の顔を今日見ることのできる功績は、偉大なものがある。


歌川国貞(初代)
天明六年(1786)〜元治元年(1864)

初代豊国の門人で、美人画、役者絵と共に相撲絵を描いた。その量は絵師中、随一を誇る。文化八年から天保にかけて五渡亭と号していた時代の相撲絵には味があるが、文政十年から香蝶楼を号するようになると共に、絵は華麗にはなったが単調になってしまった。天保十五年(1844)、師名の豊国を襲名して二代目と自称した。後世、実は三代目であるときめつけているが、二代目から継いだわけでもなく、本人が二代目といい、絵にもそのように書いているので、強いて三代目とせず、国貞改め豊国と表示した。


歌川国貞(二代)
文政六年(1823)〜明治十三年(1880)

初代国貞の門人で初め国政(三代目)と名乗ったが、師の長女に入婿して師名国貞を継ぎ二代目となった。一寿斎、梅蝶楼と号し、相撲絵を多く描いた。明治三年頃、画系の豊国を襲名したが、相撲絵にはあまり見かけない。


歌川芳虎
生没年不明

国芳の門人で、一猛斎、錦朝楼などと号した。天保から明治二十年頃にかけて、武者絵、役者大首絵に優れ、ほかに美人画、開化絵なども描いた。相撲絵は国芳の門人中では一番多い。


歌川豊国(二代)
生没年不明

初代豊国の門人で、初め豊重と名乗り師の養子となった。文政八年師の没後、師名を襲名して二代目豊国となる。一陽斎、後素亭と号し、役者絵、美人画、風景画などに優れていたが、天保六年頃から作品を見なくなった。単に「豊国」と署名し、豊の字の上半分「曲」が大きいのが特徴で、見分けがつきやすい。


歌川国安(初代)
寛政六年(1794)〜天保三年(1832)

初代豊国の門人で、役者絵、美人画、浮絵、団扇絵、大首絵など多彩な方面に優れた腕を発揮していたが、惜しくも39歳で没した。相撲絵にも独特の味がある。


春川英笑
生没年不明

はじめは春川五七の門に入り英笑と号し、のち渓斎英泉の弟子となり英蝶と改めた。文政から天保にかけて美人画を多く描いた。


歌川国虎
生年不明 (安政頃60余歳という)

初代豊国の門人で、文化、天保期に作画があり、天才肌の絵師で生涯、独身を通した。また、師の代筆をつとめたともいわれ、残された作品は極めて少ない。特異の洋風風景画を製作した。


落合芳幾
天保四年(1833)〜明治三十七年(1904)

国芳の門人で一恵斎と号し、安政の頃より役者絵、美人画、武者絵、横浜絵などを描いた。明治七年か翌年にかけて東京日日新聞の挿絵を描き、同八年東京絵入新聞を創刊して挿絵を描くなど、新聞の挿絵の創始者である。



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